背後に潜むその何か

ちょっと、ゆーわちぃが面白い題材を投下してたので考察しちゃうのよ。

これとても興味深い話。ネットにおいてユーザーの裏にいる人間を意識しつつ我々は交流を図っているのかどうかということ。もっと噛み砕いて言うとアバターの裏にはユーザーがいて、そのユーザーは社会の属した一個人でしかないということ意識しているか。

ここで似たような問題を挙げてみると、読み物をする人が小説のバックにある作者を意識しつつ読むかどうか。読者には大まかに2種がいて、あくまで作者の作品として読む人。また、作品は作者から一人歩きするものとし別個のものとして扱う人。後者は作品をテキストとして独自の解釈を施す反面、前者は作者の人間性を考えこれを書いた作者はいったいどのような人なのであろうか、そしてこの作品は何を言っているのかを考える。どちらも深く作品を知ろうをいう試みは変わらないのだけど、アプローチの仕方が違う。作者の考え方をしようとするか(消化する如何を問わず)、自身で新しいものを見つけていくかの違いだと思っている。

で、ここでネットにこの立場を適応していくとする。それはどちらの立場もあるのは承知のうえでね。

ネットというのは本質的にはテキストしてユーザーの発言が消費されるものであったのは間違いないのではないかと思う。それは、当初のネットの姿で発信した情報が一人歩きし改変、解釈を施され新しいものになっていく。ここに情報を発信した人間の姿は見えない。匿名性の文化です。悪い言い方かもしれないけど没個性的であるのかもしれない。しかし、現在では少し事情が違っていてリアルタイムコミュニケーションを重んじて個性を主張するネットというのが出来ている。もちろんこのブログというものもその一環でしょう。そうなるとちょっと話が違ってきて作者を意識せざるを得ない。この話をしたのは誰それでどういう人でどんな考え方をしているんだ。それが蓄積されるからネットでも発言の影響力が大きい小さいが生まれてくるのですよね。すると、そこにいる個人が個人だとわかってしまったら社会が生まれる。

試してみましょう。この文章を読む貴方。私のことはどう考えますかね。少なくともbotとは思わないでしょう。恐らく、PCの前に座りながらパチパチキーボードを叩く冴えない男性を思い浮かべるはず。

はい。この文章を違和感ないと思ったでしょう。でも、私は性別を公にしてないのですよね。テキストとしてめん通り受け止めるなら私は性別不明であるはず。そこで男性という像をつくってしまうのは背後にある人間を意識しているということではないでしょうか。実は女性である私とか考えられますか。ちょっと極端な例ですが思いついてしまったので。

こういうことでネットユーザーをテキストとして消費しようという時代は終わりと迎えつつある。そして個人と個人をつなぐのが社会だとすると、ネット上にももちろん社会は生まれる。ここで、この社会は現代の写し身になってるのではないかとか考えたりする。本当にネットの社会習慣を持ち込むのは正しいのか。人によってはそのほうがよしと思う人もいるし、ネットの匿名性を愛する人もいるはず。それが良い傾向かどうかはわかりませんが、向かう方向はどことなく示唆されている。そもそも二元論で語るべきではないのかもしれない。どのみちでも難しい問題で、私の今後の課題の一つになるでしょう。何番煎じになってるかもしれないですから良い資料とかないですかね。