ジャーンの書

屍者の帝国のレジュメに書いた偏見に満ちた感想だけを先駆けて載っけてみる。


私がXに何かを当てはめろと言われると、それは「物語」となるのではないかと思っている。理解されるには物語の形を取ると言っているので、「言葉」の焼き直しと言われるかもしれない。
ただ、「物語」としてのはいくつか理由がある。

その前に円城は計劃が書いたであろう物語をかけたと思うかという点について話していく。個人的にはそれはNOで、伊藤計劃として計劃のように書いてはいるが彼が投げかけた問題への答は全てうやむやにされていると感じたから。人間の意識に対して語られたのは、単一の支配についてのみでそれすらもうやむやになっている。

ここで円城が何を書いたのかと考えたところ、それは「物語」の読み方ではないかというところに行き着いた。この作品で出てくる物語である「ジャーンの書」は穴が不規則に空いた書物である。ただし、この本からはありとあらゆる情報が読み取れる。これは2部でワトソンが言っていたとおりのこと。加えて、大民族言語の不在は「物語」を唯一のものに解釈する言語は存在しない。つまり、言語につき解釈は存在しうるということを示すように取れる。結末もこれに準ずる終わり方とも言える。

これらのことから、円城は計劃の「物語」を「ジャーンの書」として書いているのではないかというのが私の見解となっている。なので私のXは「物語」である。計劃はその派閥のひとつで私の頭の中で拡大と縮小を繰り返している。

ひとつ腑に落ちないところはある。「ジャーンの書」は計算能力の高い人間にしか本質は読めないというところ。結局、本質は一部にしか理解できないとするのか、多様性を認めるのか。その部分がもやにかかったようで今も気持ち悪い。